【vol.16】2年半の職人修業で、僕は空間づくりのいろはを学んだ ― 代表が語るリノベる創業ストーリー(2)

2016.12.27
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【vol.16】2年半の職人修業で、僕は空間づくりのいろはを学んだ ― 代表が語るリノベる創業ストーリー(2)

▼前回のお話

【vol.6】おばあちゃんとの出会いが、僕の人生を変えた。 ―代表が語るリノベる創業ストーリー(1)

2016.12.05

ゼネコンでの仕事に疑問を感じ、長期休暇をとった僕は、そのまま海外をまわってみることにしました。とりあえずボーナスで手にしたお金と、ラグビーのスパイクを持って。今回は、その海外でうけた衝撃と、帰国してからのことをお話したいと思います。

7ヶ国をまわる旅は、新しい暮らしと出会う旅だった。

言葉もできないし、お金もなかったので、海外の企業に勤めながらプレーしているラグビー時代の仲間の家をまわりました。アメリカとヨーロッパを中心に7ヶ国くらい。僕も、それぞれのチームに混ぜてもらい、ひさびさのラグビーを楽しみました。働き詰めで、長いことプレーしていなかったのです。当時の仲間と一緒にプレーさせてもらい、試合が終わったら、仲間の家に泊めてもらって……という毎日を繰り返していました。

すると、一つのことに気がつきました。先輩・同期・後輩、誰もがとんでもなくおしゃれな家に暮らしているのです。そしてみんな一様に、自分の家を自慢します。「このテーブルは…」とか「この壁は自分でペンキを塗って…」とか「照明をちょっと変えてみたんだけど…」とか。

いやいや、おかしい。おしゃれに気をつかえる人間なんて、一人もいなかったんです。ライフスタイルどころか、洋服にも興味なかった連中の集まりでしたから(笑)。

最初の一人がそうだったので、たまたまかなとも思ったものの、どうも違う。フランス、アメリカ……いろんな仲間のところを転々としたのですが、みんな家の話をする。建物自体は古いアパートなのですが、みんな何かしら工夫をし、素敵な空間に仕上げて暮らしているんです。

これは何なのだろう。古い建物なのに、それを自分たちでかっこよくしている。日本に戻っても、その衝撃がずっと頭の中に残っていました。

初めて意識した、“中古だからこそ”の魅力。

帰国しても、僕はそのまま会社に戻ることはしませんでした。仕事へのモヤモヤは、海外をまわっても消えることはなく、むしろ大きくなっていました。

それからも僕は友達の家を転々としていたのですが、海外で経験した暮らしとの違いをまざまざと感じるばかりでした。まず誰も、家の話なんて一切しません。口を開けば、仕事やその他の話がほとんど。そして、どこに行っても同じような部屋ばかりです。ビニールクロスに、ビニールの床に、一灯照明。工夫もなにもありません。

一体なにが違うんだろう。つきつめて考えて僕なりに導き出した結論が、新築にはない、中古ならではの魅力でした。

古い建物を取り壊すのではなく、古いまま活かして、今の自分たちにあった空間へと作り変えること。海外に出た仲間たちの暮らし、その「古いものをかしこく作り変える工夫」そのものに、僕は魅力を感じたんだと気づいたのです。

その発見が、ゼネコンでのおばあちゃんの話とつながりました。あの、おばあちゃんの思い出の団地はなぜ取り壊されなければならなかったのだろう。年月が経てば経つほど、古い団地の入居者はどんどん減っていきます。団地を出て行く人は増えますが、古びた団地にわざわざ引っ越してくる人はほとんどいないからです。もしあの団地に、おばあちゃん一世帯だけになったとしたら、建物の管理は到底できません。それが一番大きな問題なのです。

古いものを古いまま残すことはできない。だったら、その空いた部屋を、新たな入居者で埋めることはできないか。古い部屋と新しい部屋を混在させる方法はないか。海外のように、古い部屋をいまにあわせて作り替えていくことはできないか。

カフェブームに見た、問題解決のヒント。

こうと決めたらすぐに動くのが、僕の信条です。「30歳までに、兆しが見えなかったらあきらめる」と自分なりに期限を決めて、僕は準備をはじめました。僕はゼネコンで現場監督や企画の仕事はしましたが、それ以上の経験はありません。不動産、デザイン、施工…幅広く、そして深い経験が必要だと考えました。

当時、リノベーションという言葉はまだ使われていなかったんじゃないかと思います。すでに一部の進んだ人たちの間では使われていたのかもしれませんが、少なくとも僕はまったく知らず、古い空間を活かすという道は、自分なりに手探りで見つけていくしかないと思っていました。

不動産屋さんで営業のアルバイトをしたり、オープンデスクでデザイン事務所に行ってみたり。その中で、今でも僕の一番のベースになっているのが、『東西新風堂』という店舗デザイン会社での経験です。

2000年当時。僕の住んでいた関西では、カフェブームの波がきていました。今でこそ街でよくみる風景の一つになりましたが、当時はあの「カフェならではの空間」が、すごく新しかったんですね。話題のお店を次々に手がける店舗デザインの会社やデザイナーも注目の的でした。

僕はここにヒントがあるんじゃないかと考えました。まずは、自由な発想で素敵な空間をつくりあげる店舗デザインの世界に飛び込んでみて、そこから空間づくりの幅を住宅へと広げていけるのではないかと考えたのです。

その頃、関西では3つのデザイン会社が特に話題でした。『TRUCK』『graf』、そして『東西新風堂』。その東西新風堂のオーナーと共通の知人を見つけた僕は、その縁をたどり、門をたたくことにしたのです。月給は、ゼネコン時代の1/3。将来、独立するつもりであることを正直に伝え、修行させてほしいと申し出たところ、「明日から来い」と迎え入れていただけました。

現場で手を動かし、汗を流したあの時間が、今の自分の原体験。

東西新風堂は、デザイン会社のなかでも際立ってユニークな存在でした。デザイン会社は主にデザイン・設計のみを担当し、実際の工事は別の工務店に外注するのが一般的。ですが、東西新風堂では、デザインはもちろん工事まで自分たちでやっていました。

当然、僕も現場に放り出されます。朝8時に入って、そのまま夜まで工事。終わったら、図面に向かう、という毎日です。現場仕事は初めての経験でしたが、最終的には大工仕事から左官、水道・電気工事と、一通りの内装工事は自分の手でやりきれるようになりました。

と、一言でまとめるとそれまでなのですが、当時はまあ大変でした。朝から晩までとにかく現場。みんな、ぼろっぼろになりながらやってました。僕なんてほとんど素人からのスタートですから、そもそも正しくやれているのかどうかすら分からないんです。だからもう、オーナーの現場チェックが怖くて怖くて(笑)。

本当に厳しい方で、そこそこの仕上がりでは決して満足してもらえないんですが、だからこそ、オーナーに認めてもらえる空間ができたときには、嬉しいというかホッとするというか、何ともいえない感覚になったのを覚えています。

東西新風堂での2年半は、僕にとって強烈な原体験ですね。当時の事務所もすごくかっこよかった。1Fがお店で2Fが直営のバー、3Fがオーナーの部屋、そして向かいに工房。後に僕が起こす会社でも、カフェをやったり工房を設けたりしたのですが、まさにこの影響です。

ちなみに、オーナーはもともとプロのサックスプレーヤー。よく聴かせてもらっていたリッキー・リー・ジョーンズのアルバム『POP POP』の一曲は、今でも僕の大好きな曲の一つです。

当時つかっていた「腰袋」。いまは本社の役員室に飾っています。

 

(次回につづく)

▼つづきはこちら

【vol.25】リノベる以前に起こした2つの会社のこと ―代表が語る創業ヒストリー(3)

2017.03.30

 

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